Capricious

自分の気まぐれさを愛したい

入口は共感要素から

先日、書店に足を運んだ。

見慣れた陳列。

足はいつもと違う方向へ向かっていた。


いつもは地球の歩き方だとか、

料理本だとか、DIYのアイデアブックなどに

すぐ目が行くのだが今回は書店に向かうまでに

読みたい本の系統が心の中で決まっていて

小説のコーナーに着くまで時間はかからなかった。

 


いつも書店に行くとどんな本もまず

惹かれたタイトルのものを手に取る。

 


立ち読みはするが全部を読み切りたい訳でなく

気に入ったものをしっかり購入したい。

出来るならば多くても2冊くらい見つけたくて

試し読みを繰り返したりするが

滞在時間があまりに長かったりすると

お店に申し訳なくなる日もある。

 


その中で私が気になったのは、

芦沢央さんの『許されようとは思いません』というタイトルの本だった。

 


なんでこのタイトルで目を引くのか、

自分に似た境遇があったからか、

わたしはこの本の帯に書かれた

『このどんでん返しがヤバい!』

に後押しされるように立ち読みをすることになった。

 


その本は五篇で構成されていて、

初めはそれがどこかで繋がるものかと

そう思っていた。

 

一篇の終わり方を見てもまだ続きがありそうだし、

でも次の章では全く関係のなさそうな話。

 


思い当たるところを無理くり繋げようと、

これが伏線なのかなと考えたりもしたが

ちらっと三篇までの冒頭を覗いても繋がらず

一篇はあれで終わりだったのか…

と、そこで終わりにすればいいものを

三篇を読み切る勢いで気付けば160ページ目

までめくっていた。

 


もはや自分は買わず読み切ろうとしてる

者のようにその場を動かずに

その本と向かい合ってたことに気が付いた。

 


展開的にひと段落したところでハッとしレジで購入。

 


家に帰り続きを読んだが

やはりどこの章も別の話。

短編だったのに気付かず伏線かな?伏線かな?

と見ていた自分がすこし恥ずかしかった…

私はどんでん返しを待っていたんだな、と思った。

 


非日常なくらいのどんでん返しを

興味本位で期待していたのかもしれない。

 


でも作品自体、色んな意味で鳥肌ものだった。

 


期待をするとなんだ~と思うこともある。

ただ興味すら持たないと手に取ることもない。

もっと色々なことに興味を持って期待をして

どっぷり浸っていこうと思う。

 


自分の中でまた何かが少し変わった気がする。

思い付きで行動するのもたまには良いな、

 

有意義な時間だった。

今世で得を積みたい

 

わたしが生まれるずっと前から

類は友を呼ぶと言うことわざがある。

とても有名なので言わずと知れているが、

それだけ誰にでも言える事なのである。

 

 

自分は友を呼ぶ側か呼ばれる側か

そもそも呼ぶか呼ばないか

多くの人に出会えばこそ

それを考える機会は度々ある。

 

 

ひとりの世界に人を巻き込めるかどうかは

自分の力量と巡り合わせだったりするので、

諦めや開き直りが時として肝心な時がある。

 

友を類にしていきたい。友の類になりたい。

 

相手を分かろうとすることは正直とてもではないが

それはそれは沢山の労力を使うことになる。

 

会話のメトロノームだってテンポは異なるし、

顔や声が違うことで持つ性格を理解しても

理不尽なことが要らぬほど溢れているから

神経をすり減らしていかないと、

キャッチボールが出来ないこともある。

 

頭を掻きむしりたくなる人もいるかもしれない。

 

でも今この文章を雑にでも読み、

最後までこの文章に行き届いたひとは

私を知るために労力を使ってくれた。

 

ただそれだけが嬉しかったりする。

 

ただそれだけで何でも良くて、

ただそれだけが心の救いだったりもする。

 

今が人生の全てだと思うと、

きっと例外なく病んでしまうので

先のことはあまり考えないようにしたい。

 

オチは考えるようにしたい。

 

故きを温ねて新しきを知る

 

 

何をするにも年齢は付き纒う。

 

十路なのに大人っぽいひとや

四十路なのに独り身のひと

 

付き纒うけどそれは社会的な見え方だったり

どちらにしても自分が気にならなければ、

生涯変わらなかったりするものである。

年齢は重ねどもただひたむきに謙虚でありたい。

 

こわいのは『慣れから生まれる張り合い』であり、

わたしはわたし あなたはあなた

それを冷たい意味で捉えてしまうことだ。

 

平穏な日々はつまらないかもしれない。

それでも誰かを傷付けたり振り回したりする事を

生きてる実感とするのは難しかった。

あまりにも相手の痛みに過剰なのだ。

 

若さ故に許されることは沢山ある。

 

それなのにもう十代が終わってしまう。

 

先日手相を見てもらったら、

『石橋を叩いて渡らないタイプなので』

と言われてその通りだと思ってしまった。

 

とりあえず渡ってみたい。

 

皆が同じタイプでもないので、

どうも難しい所ではあるのだが

プラマイゼロむしろプラスぐらいの感覚で

長い目で人と関わっていきたい。

それが聖なる夜でなくても

 

違う性質を持ってるから合わないと

決めつけてしまう時がある。

 

シロップは炭酸水で割るとよく合うが、

そんなものは自分が知らないだけで案外

世に溢れているみたいだ。

 

 

それなのによくない部分に目を付けた途端、

もうそればかりが始終頭を巡っては

脳天をぶち抜くように互いで互いの個性を殺し

冷戦を繰り広げてることがある。

そういったもので銃口が自分に向いた時、

手を挙げて降参してしまう所がある。

 

テレビから流れたクリスマスソングを

ふたり口ずさむ時間を平和に思った。

 

中学の頃、英語の先生が教えてくれた

クリスマス休戦の話が頭をよぎる。

 

第一次世界大戦の日にドイツとイギリスの兵士が

敵国であるにも関わらず共に歌い、

クリスマスを祝ったというお話なのだが

これが私にはすごく素敵なことに思えた。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E4%BC%91%E6%88%A6

 

違う性質を持ってるから合わないと

決めつけてしまう時がある。

 

決めつけてしまう時もあるけれど、

分かり合えないことも無い。

火は水に弱い 水も火に弱い

 

数年間で協調性を学んだ。

誰かに合わせる時に心からそれが

いい事だと思いながら合わせたい。

そう出来なかった為にウラとオモテが存在した。

 

中身のある人間になろうと思ったけれど、

そもそも、その中身ってなんだろうか。

 

遺伝子の組み合わせで顔が違うように

皆が全く同じ考え方をできる確率は少なく、

誰かに合わせ生きることが当たり前ではないと

最近ふと思うようになった。

 

かと言ってなかんずく荒れ狂う訳でもないので、

これは極論であり最低限の話だけれども。

 

美しいハリウッド女優や隣人の叔母様だって

才能などは取払った上で共通してる事は

骨と筋肉と水分が身体にあることだ。

 

胎児の出生時の人体、

水の割合はおよそ90%という。

ジャングルに放り出された時、

水なしでは30日も生きる人は居ない。

 

年取るごとに身体の水分は減っていき、

老人になると50-55%になるらしい。

 

亡くなってしまう時、

人は燃やされていくがその時に水分は

もうゼロになってしまう。

 

わんわん泣いてこの世に挨拶をした時、

90%も水分があった人間がゼロになるなんて

信じられない話ではある。

 

 

川と石と岸

 

自分の前を横切る川が流れている。

向こう岸まで着きたいのだけれど、

そのためには石を渡る必要があった。

 

今、目の前にあるのは石。

小さな石を踏むと自分の重さで転がって

川に落ちてしまうかもしれない。

なので自分が落ちてしまわぬよう、

出来る限り大きな石を探していた。

 

 

今、大きな石が目の前に

ぼんやりと霧に紛れて現れている気がする。

その石の先に岸が見える。

 

石はかつての思い出が、

岸には将来が見える。

 

日常生活も色恋沙汰もこの感覚になる時はよくある。

ベランダに風鈴を飾りたい

 

 

28℃の風に当たりながら目を覚ます、

誰も私を責めたてたり咎めたりしない。

目覚ましもならない。

寝相の悪さが私のTシャツをはだけさせた。

 

外からたまに走るトラックの音が聴こえる。

重力がないような空間で意識は朦朧とした。

 

私には何をしても上手くいくという万能感、

マリオでいうスターのような感覚が

時折 降りてくる時がある。

 

何でやってこないんだろう

そんなどうしようも無い疑問を兄に投げると、

進んではてなボックスを探らないと

スターもやってこないもんなあと

遠回しにアドバイスを貰い嬉しくなった。

 

平成最後の夏ももうすぐで終わってしまうけど、

理想の夏はあと1歩先な気がしてる。